2016年10月2日(日)放送、フジテレビ系「世界法廷ミステリー世紀の裁判O.J.の告白」
19時00分~21時54分


アメフト界のスター選手だったOJシンプソン。

大学(USC)時代からスーパースターだったOJシンプソンは、1969年にバッファロー・ビルズより1位指名を受けて入団し、1973年にはNFL史上初めて年間2000ヤードを超える「2003ヤード」を記録し、MVPを獲得。1979年に引退するまでNFLのオールスターゲームのプロ・ボウルに6回も選ばれた、全米のスター選手。
現役時代はOJシンプソンを目当てにスタジアムに足を運ぶ人が多く、引退後は映画俳優として「タワーリングインフェルノ」に出演したり、幅広い層に愛された英雄だった。

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しかし、1994年6月13日に起こったOJシンプソン事件で一転して、容疑者として犯人扱いを受けてしまう。


OJシンプソンに一体なにがあったのか?


世界法廷ミステリーで事件の真相が初公開される。



・事件概要

1994年6月13日午前0:10頃、シンプソンの元妻(ニコール・ブラウン)とその友人(ロナルド・ゴールドマン)が倒れているのをカリフォルニア州ロサンゼルス、ブレントウッドにあるニコールの自宅玄関前で発見されたことから始まった。ゴールドマンは180cmと長身であり格闘技の達人であったため、体格や腕力の勝る男性による犯行が濃厚と考えられた。

事件発生後、イリノイ州シカゴにいたOJシンプソンは、警察からの連絡でブレントウッドに一番早い便で帰った。飛行機から降りたシンプソンはいきなり手錠をはめられたが、顧問弁護士であるハワード・ワイズマンによりすぐに解かれた。


その後もOJシンプソンは冷静に対処し、一度釈放された。その後、6月16日に逮捕令状が下りた時、シンプソンは友人のアル・カウリングズ(英語版)の運転するフォード・ブロンコの助手席に乗り、ロサンゼルスのフリーウェイでパトカーの追跡を振り切ろうとしたため、カーチェイスを展開する事態となった。その際には逃げ切ったものの、それから2時間後にシンプソンは逮捕された。



なお、この逃亡劇は全米のテレビで生中継されたために、ロサンゼルスでは逃亡するシンプソンの車を追いかけるものが多数出現した。また、全米中がテレビに釘付けとなり、食事の手間を省くためにピザの注文が急増した。ちょうど行われていたバスケットボールリーグ、NBAファイナル・ニューヨーク・ニックス対ヒューストン・ロケッツの第5戦は忘れられて(NBCが放送を予定していた)、テレビを見ているものの中からは「GO!OJ!」(OJ逃げろ!)という声も起きた。




シンプソンがブレントウッドの自宅に到着した直後、その後裁判でシンプソンの主任弁護人となるロバート・シャピーロもシンプソンの自宅に到着し、シャピーロ立会いのもとで逮捕されることとなった。なお、この際にシンプソンとカウリングズは武器を所持していたことが確認されている。


シンプソンが逮捕された後、多数の出版物が彼の写真を掲載。
タイム誌は彼の皮膚を暗くし、囚人ID番号のサイズを縮小した顔写真を表紙に用いた。一方ニューズウィーク誌はオリジナルの写真を表紙に用い、対照的な二誌が書店のスタンドに並ぶこととなった。タイム誌には市民グループからの抗議が続いた。後に写真を加工したタイム誌のイラストレーター、マット・マフリンは「より巧妙に、より注意を引きたかった」と語った。



シンプソンは全面無罪を主張し、陪審裁判で決着をつけることとなる。シンプソンの裁判ではロバート・シャピーロやジョニー・コクランなど、全米で有名な弁護士・検察官が出揃い、「世紀の裁判」と呼ばれた。しかし、弁護団のほうが質量ともに検察を凌いでいることは誰の目から見ても明らかであった。なぜなら、弁護団は「ドリームチーム」と呼ばれるほど、経験豊富で有名な弁護士ばかりだったからである。

そのためか、この事件を題材にした書籍グレイゾーンでは「単独」の検察、「全米選抜」の弁護団と称された。なお、シンプソンの弁護費用は当時の日本円にして5億円といわれており、その規模の大きさが窺える。



・シンプソンが犯人説


シンプソンは離婚後もニコールに執拗につきまとって脅迫していた(離婚前も頻繁に家庭内暴力を振るっていた)。

シンプソンのDNA鑑定された黒い皮手袋が発見。

現場の足跡がシンプソンの足のサイズと一致。

シンプソンが40日前にナイフを購入。

シンプソンの手にはナイフで切ったと思われる怪我がある。

現場の血痕のDNA鑑定がシンプソンに一致。




・弁護側の反論。

シンプソンには新しいガールフレンドが既にいた。

推定時刻には自宅に戻っていたのでアリバイがある。

検察が凶器と判断したナイフが発見されていない。

シンプソンの手の怪我はホテルでコップを割って切ったものである(事実ホテルのバスルームで割れたコップが発見されシンプソンの血液が付着していた)


発見されたという手袋は、法廷でシンプソンが試着したときは小さすぎて入らなかった(後に同じサイズの新品の手袋を試着した際は収まった)。

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DNAの血液採取後、担当警察官のフィリップ・バナッターが、血液の入った小瓶をなぜか鑑識担当者のデニス・ファンのいる事件現場まで一度持って行き、その後何時間も持ち歩いたあげく鑑識担当者には渡さなかった。


採取した血液は熱を通しやすい黒のビニール袋に入れて保管されていた。

シンプソンから8ccの血液を採取したはずが鑑識の際には6ccに減っていた。
採取した血液が減っていたことについて、ファーマン刑事が黒人であるシンプソンを陥れるために血液をばらまいて証拠を捏造した可能性がある。


検察は「凶悪事件を裁くのが好き」といわれる検察官クラークを筆頭に、被害者の血液がついた証拠品が多数発見されたことや加害者の傷や過去の振る舞いから犯行を立証しようとした。一方、警察に対し根強い不信感を持つ黒人弁護士のコクランを主とした弁護団は、検察側のあげた証拠品の信憑性や人種問題について反証した。



犯行に使用したと思われる手袋がシンプソンの手に合わなかったことが陪審員に合理的疑問を抱かさせてしまったことや、手袋を発見したとされるマーク・ファーマン刑事が人種差別主義者であったこと、警察の証拠管理の杜撰さも重なって裁判は弁護側へ有利に傾き、最終的には1995年に陪審員は全員一致で「無罪」と結論し、そのまま判決となった。アメリカでは無罪における検察の上訴は憲法修正第5条により認められていないので、シンプソンの無罪が確定した。


参照wiki



実力で巨万の富を稼ぎ出し、羨望と称賛の中にいた偉人の一人にまでなったO・J・シンプソンは、刑事裁判では無罪になったが、民事裁判(個人の間の法的な紛争、主として財産権に関する紛争の解決を求める訴訟)では遺族に敗訴し、30億もの賠償金を支払っている。なので、事件の真実はいったいとこにあるのか?と映画化にもされ多くの謎を呼んだ。


一目ぼれしたのはO.Jシンプソンの方からなので「妻とよりを戻したかった」からという理由が妥当な線に思われたが 、判決は陪審員によって無罪確定。結婚してからは、 DVで何度も妻が警察に通報しているのも事実だし、 あれだけの証拠があり、無実という所が逆に不思議な事件。 とても優秀な弁護士を何人も雇ったことで、「お金で真実を捻じ曲げてる」ように思えるのはしょうがないだろう。

結局、O.Jシンプソンは無罪で、真犯人はいまだわかっていない。

しかし、O.Jシンプソンは、この事件がきっかけですべての物を失い、稼いだ財産も裁判費用に潰え、豪邸も売却。借金まみれになった挙句、2007年9月16日、4人の男と共犯し、拳銃で脅しスポーツの記念品を盗んだ容疑で逮捕された、2008年12月5日に33年の懲役刑が言い渡され、現在は獄中の中で刑に服している。

最悪で90歳まで刑務所から出られないので、獄中のなかで生涯を閉じることだろう。



米国の陪審員制度では判決に至った罪人の内、全体の約35パーセントが冤罪だったと言う調査結果が出ている。○刑執行後の調査で明らかになっただけでこの数字なので、実際には多くの冤罪で刑務所に入っている人は多い。


日本の司法裁判も問題が多いが、陪審員制度も多くの問題を抱えているので、日本も取り入れると冤罪や事実と異なる判決が増える可能性が高いとされている。日本はほぼ確実に有罪にできる犯罪以外は起訴しないので、すぐに判決が出る。

遅くなるのはオウム事件のような特別な場合のみ。O・J・シンプソン事件は制度の維持に汲々としている米国の姿が垣間見れる結果となった。



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