2017年1月26日(木)放送、フジテレビ系列「奇跡体験!アンビリバボー」
19時57分~20時54分





アンビリバボー人気の実録シリーズ。
歴史に埋もれた悲劇のオリンピック銀メダリスト「ピーター・ノーマン」を特集。



肌が黒いことは、全く悪いことではない。

しかし、歴史ではピラミットを積み上げたのは奴隷は黒人で、その奴隷が著したのが旧約聖書で創世記 15章12節「日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。」と4千年も前に記しており、黒は忌むべき色と定着しおり、新約聖書に移ったバチカンでさえ、フランス革命の時代でも4万人の黒人奴隷を使っていた歴史がある。



アメリカで、1865年に奴隷廃止に至るまで、キリスト教圏で「黒肌は忌むべき色」だったのが差別の原因にあり、これが科学的に2千年で、「置かれた環境に応じて肌色が変化する」ことが解明されて、「宗教的な思い込みは迷信」だとされるまで黒人は差別されていたので、黒人はいまだ差別されている。




この世にいる全ての人は、平等に扱われる権利を持って生まれてきており、今でも黒人差別は国によって根強く残っているのが現実にある。今回は、オーストラリアの元短距離陸上競技選手ピーター・ノーマンが「ブラックパワー・サリュート」黒人差別に抗議した実話を紹介。




今回はピーター・ノーマンが紹介されるにあたって、黒人差別された実態を先行して紹介する。





■目次

ピーターノーマンの差別問題
1968年メキシコオリンピックで起ったブラックパワー・サリュート
1968年のアメリカ
ピーターノーマンへのIOC「国際オリンピック委員会」が処罰
ピーターノーマンのその後

ピーターノーマンの差別問題




今から約30年前。マット・ノーマン(当時12歳)の伯父ピーターノーマン(当時40歳)は1968年メキシコオリンピックで銀メダルを獲得したトップ・アスリートだった。

ピーターノーマン

ピーター・ノーマン
生年月日1942年6月15日



オーストラリアの元短距離陸上競技選手であるピーター・ノーマンは、1968年メキシコオリンピック(夏季)の男子200mの銀メダリスト。



オーストラリアでは陸上のメダリストともなれば英雄であり、引退後も生活は一生保証され、指導者としても活躍できるのに、ピーターの名はオーストラリア国内でもほとんど知られておらず、アルバイトをして生計を立てていた。

一体、ピーター・ノーマンになにがあったのか?




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1968年メキシコオリンピックで起ったブラックパワー・サリュート





ピーター・ノーマンはオリンピック出場を決めたものの、タイム的にメダル獲得できるような記録ではなかったため全く期待されていなかった。さらにピーター・ノーマンが出場する男子200メートル走には、世界記録保持者のジョン・カーロスやトミー・スミスといったアメリカの一流選手が出場者に名を連ねていたため、メダルどころか予選通過すら危ぶまれていた。


ところがピーター・ノーマンは予選でいきなり自己記録を更新し、決勝進出を決める。ピーター・ノーマンは一緒に決勝に上がった黒人のジョンやトミーと打ち解ける。 実はこの時、アメリカの黒人選手である2人は、黒人差別を訴えることをオリンピックに臨んでおり、その気持ちが、ピーター・ノーマンの運命を変える結果となる。



男子200mの結果は、金メダリストと銅メダリストは、それぞれアメリカのトミー・スミスとジョン・カーロス。白人のピーター・ノーマンは大健闘となる銀メダルを獲得し表彰台に登る。




アフリカ系アメリカ人であるスミスとカーロスは、メダル授与が行われる表彰台の壇上で、星条旗が掲揚されている間、黒人公民権運動の象徴であるブラックパワー・サリュート(アメリカ公民権運動で黒人(アフリカ系アメリカ人)たちが行った、拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為)を行った。

ピーター・ノーマンは白人ながらも彼らの運動を支持し、同じ表彰台で「人権を求めるオリンピック・プロジェクト」のバッジを着け表彰台に上った。


当初、トミー・スミスが1人で両手に着ける計画だったブラックパワー・サリュートの黒グローブを、スミスとジョン・カーロスの2人がそれぞれ1つずつ分かち合うように勧めた人物でもあった。


参照wiki



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1968年のアメリカ




1968年、アメリカ国内では1950年代から始まったアフリカ系アメリカ公民権運動の真っ最中で、州レベルで隔離政策を認めたジム・クロウ法(黒人の一般公共施設の利用を禁止制限した法律。この対象となる人種は、「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混じっているものはすべて黒人とみなす」という人種差別法)が廃止されたばかりだった。


さらにこの半年前に、運動家のキング牧師が暗殺されたばかりで、その前の年には1960年五輪金メダリストのムハメド・アリがベトナム戦争反対のために徴兵を拒否してため、プロボクシングの「世界チャンピオン座をはく奪」など、公民権運動や人権問題についてアメリカ国民の意見は真っ二つに分れていた。


隔離政策がなくなっても、それによる長年根付いた差別的な考えはすぐ消えるわけではないし、現在でも差別は残っている。なので、スミスとカーロスはオリンピックの場で主張をしたかったのだろう。





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ピーターノーマンへのIOC「国際オリンピック委員会」が処罰





IOC「国際オリンピック委員会」は、2人のアフリカ系アメリカ人のメダリストの表彰台での抗議については、当時IOC会長だったアメリカ人のアベリー・ブランデージが「抗議はアメリカ国内の事情であり、批政治的であるはずのオリンピックに持ち込むのはふさわしくない」という理由で2人の選手を出場停止を命じ、選手村も即日追放。



それをUSOC全米オリンピック委員会が異議を訴えると、ブランデージ会長は「アメリカ代表全員を追放する」と脅し、結局2名の選手だけが去ることなった。



実はブランデージ会長は、1936年ベルリン大会でUSOCの団長を務めており、当時はナチス党の理解者でもあったという説があり、メキシコ五輪での抗議に対して厳しい処分を取ったのは「非政治的なオリンピック精神を反した行為を認めなかったこと」とした。






帰国後、2人の家族には、嫌がらせや脅迫被害にあっている。

時間が流れ、人種問題について世間の考えが変わってきて、彼らが取った行動を認める人も増えてきた今は「アメリカ社会に影響を与えた重要な出来事」だと言われている。IOC側も当時に取った行動は「正しい」と主張しているが、抗議については理解を示している。



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ピーターノーマンのその後



当時のオーストラリアは、アメリカと類似した白人最優先主義と、それに基づく非白人への排除政策が存在しており、アメリカより差別が根強かった。ピーターノーマンは白人でありながら、黒人と一緒に公民権運動を支持する行動を行うのは、オーストラリアにとって反逆者。


銀メダルはく奪されることはなかったが、次の1972年ミュンヘン五輪で、ピーターノーマンが予選3位という良い結果を出したにもかかわらず、代表選考から落とされ、あからさまな嫌がらせをうけ、選手生命を終える結果となる。

結局、怪我をしてしまい引退。

引退後は、指導者としては雇ってもらえず、アルバイト生活を送り、幻の銀メダリストとして2006年10月3日64歳でこの世を去った。


しかし、ピーターノーマンが亡くなってから6年たった2012年になった時、オーストラリア政府はピーターノーマンの遺族に1972年のミュンヘンオリンピックに代表に選ばなかったこと、ブラックパワー・サリュートの人種平等を推し進めたピーターノーマンへ謝罪。



国が個人に謝罪するということは異例のこと。



そもそも黒人の差別は、プランテーション(大規模工場生産の方式を取り入れ、熱帯、亜熱帯地域の広大な農地に大量の資本を投入し、単一作物を大量に栽培する)のために大量に米国が黒人奴隷を購入したのが始まり。



なので、人権、自由といったものがなかった家畜同様に売り買いされていた。



その後、リンカーンによる奴隷解放宣言で奴隷ではなくなったが、低賃金や黒人専用車両(白人のにくらべれば数段おとる設備、ジムクロウ法)の設置、教育機会の不均等といった有形無形の差別をうけます、1950年代の公民権運動などにより、1980年代にかなり改善されてはいる。



オーストラリアは「他民族主義マルチカルチャリズム」と「白人優越主義」がどっちも高いレベルで混在している国。


例えば、ある日本人が「オーストラリアでは全く人種差別は感じなかった」といい「他の日本人は「オーストラリアは人種差別がひどい」という場合がある国ほど特殊な国。「人種差別」に関しては、アメリカよりも複雑でわかりにくいし、ほんの数年で「人種」に関する考えが変わる政権が主流になる国。



ただ「白人」がその主流であり、そのオーストラリアがピーターノーマン「ブラックパワー・サリュート」の件で謝罪することは歴史的な出来事なのがわかる。




今夜の放送で、ピーターノーマンの当時を再現VTRでドラマ化。
今なお根強い、差別問題の実態が紹介される。


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