富久信介さん父親 (4)
2020年6月30日(火) 放送、日本テレビ系「ザ!世界仰天ニュース」
19時00分~22時54分



2000年に起きた日比谷線脱線事故について特集。

この事故は、日比谷線が中目黒を出たところの急カーブに脱線防止ガードが無く、メトロの03系が競合脱線して、偶然にも通りかかった中目黒発の東武20000系に(その日はダイヤが乱れていた)、脱線した03系が、普通通りに線路上を普通に走っていたにもかかわらず接触した事故。





まだ2000系で乗り入れをしていた時代、中目黒駅に着いた編成を引上げ線に入れる時、やってはいけないにも拘わらずATSを切って引上げさせたため、ホームへ入れるために出庫中の2000系(東武車)にぶつける事故を起こした。



今回は、この事故について特集されるので、原因とされている運転手や被害者となった高校生についてまとめてみた。







■目次

日比谷線脱線事故とは
日比谷線脱線事故の原因
日比谷線脱線事故の犠牲者の名前
富久信介さんに助けられた女子高生

日比谷線脱線事故とは




富久信介さん父親 (5)






営団地下鉄日比谷線中目黒駅構内列車脱線衝突事故とはは、2000年(平成12年)3月8日午前9時1分頃に帝都高速度交通営団(現東京メトロ)が運営する営団地下鉄日比谷線において発生した列車脱線事故。



北千住発、東京急行電鉄(現:東急電鉄)東横線直通各駅停車・菊名行き(営団03系電車、列車番号A861S、03-102編成)の最後尾車両(03-802)が、中目黒駅手前の急曲線における出口側緩和曲線部(カント逓減のため平面性が失われる箇所)で、カーブ外側の車輪が乗り上がり脱線を起こした。


機材線用横取りポイントにより隣接線にはみ出したところ、対向の中目黒発東武鉄道伊勢崎線直通竹ノ塚行き(東武20050系電車、列車番号B801T、21852編成 モハ23852 - 26852)と側面衝突し大破した。

参照wiki




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日比谷線脱線事故の原因





富久信介さん父親 (6)

日比谷線脱線事故の原因は、wikiにも書かれているが、結局原因らしい原因が分からず、原因不明に近い。



wikiには日比谷線は急なカーブと勾配で、中目黒駅に当時、脱線防止レールがつけられておらず、低速で通過していたが、列車がせり上がって脱線した。脱線防止レールが無かったこと、車体や台車の軽量化等もあると考えられている。






しかし、事故の状況をみても、あのカーブでは100キロ程度の走行で脱線しない。

それに100キロの速度で脱線したにしては、ひどい破損状況。なので、日比谷線脱線事故は通常走行では考えられない事故。




となると、運転手による超過走行が考えられる。



同じような大惨事となったJR福知山線脱線事故は、遅れを取り戻すための回復運転(スピードを出す)というのが常態化していたとされていた。あの事故はそれが限界点を突破してしまった結果の出来事であって、そうならないまでもスピード超過は他の運転士もしていた。運転士が無茶な運転をしているという認識がおそらくなかったのだろう。




誰がどれだけの責任を取るべきかは会社判断になってしまうが、これだけの事故だから、関係各所全部に責任を取っていただいても被害者側からすれば当然のこと。運転手だけが悪いわけではないが、色んなところに責任や問題があることは間違いない。






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日比谷線脱線事故の犠牲者の名前






この事故でよく指摘されていたのが、曲線区間内の脱線防止ガードの設置基準で、当時の営団地下鉄の設置基準はR140以下となっていた。この事故を受けて、営団地下鉄は、脱線防止ガードの設置基準をR160に引き上げ、事故現場の曲線区間にも設置された。



また、営団500形をアルゼンチンに譲渡した際に、営団のスタッフがメトロビアスS.A.社員に整備・運転の教育を徹底、とりわけ故障発生後の事後保守に頼っていたものを定期的な検査で故障の芽を事前に摘む予防保守へと転換を行い、以後故障発生率が著しく減少。以後20年間、脱線事故は起きていない。



皮肉にもこの事故があったおかげで、いまの事故対策ができたのだが、こういった対応をするきっかけとなったといわれているのが、この日比谷線脱線事故の犠牲者の一人、富久信介さん(当時17歳)。

富久信介さん父親 (3)




富久信介さんは麻布学園というエリート校に通いながらプロボクサーを目指した。2000年3月8日、高校の期末試験の最終日だった富久信介さんは、いつもより少し遅めに乗車し、カーブで脱線した下り電車と衝突。即〇だったという。
富久信介さん父親 (1)




地震と同様に事故後はメディアは取り上げないが、大手鉄道会社は社員に対して常に自分の会社で起きた事故だけではなく、他の会社で起きた事故についても教育を必ず行っていて風化はさせていない。



例えば、JR西日本では「鉄道安全考動館」という痛ましい事故を忘れず事故から学ぶことを目的とした教育施設があり、ほとんどの社員が必ずこの施設で研修を受けることになっている。その他にも東京メトロには「安全繁想館」、JR東日本には「事故の歴史展示館」、阪急電鉄には「安全考学室」があり、それぞれの鉄道会社が教育施設を保有して日々教育を行っており、そのような施設がない鉄道会社は他の鉄道会社の教育施設での研修を行っている。



この教育施設には実際の車両や車両の一部が展示してあったり、当時の新聞やテレビ報道、亡くなった家族の手記や鉄道会社への手紙などが、その鉄道会社の事故以外のものも含めて展示されているので、他の犠牲者の遺族がメディアに取り上げられるのを拒否する中、犠牲者の一人である富久信介さんの父親がメディア取材などに応じたことで、事故抑制につながっているのかもしれない。

富久信介さん父親 (2)



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富久信介さんに助けられた女子高生





今回、仰天ニュースでは富久信介さんに20年前助けられたという当時・女子高生だった人物が特集される。


記事内容



2000年(平成12)3月8日に起きた営団地下鉄日比谷線脱線事故に巻き込まれて亡くなった麻布高校1年生の富久信介さん(当時17歳)のこと。私もその話に深く引き込まれた。事故は大きく報道されたから記憶している人も多いだろう。彼は大橋ジムの練習生だった。


「事故が起きたのは20年前の俺の誕生日だったんです。先日、その富久との思い出をSNSに載せ、ネットで尚弥の相手のカシメロ情報を調べてたんです。その時に俺の携帯が“ビーン”と鳴って凄い長文が来たんです。20年前に富久と同じ電車に乗っていた女子高生からでした。今は結婚して子供もいるそうなんですが」



「彼女が言うのには富久は女の子が痴漢に合うといつも助けてくれていたそうで『今までボクシングを全然知らなかったので。やっと会長の連絡先が分かってたどり着きました』と言って。当時、富久に彼女がいる気配も無かったのでまた違った面が見えて感動しましたね。すごくいい話だったんで富久の両親にそれを転送して。両親も感動してそれをまた彼女に送って。彼女もすごく喜んでくれて」




凄惨(せいさん)な大事故は、中目黒駅手前のカーブで午前9時頃に起きた。5人が亡くなり、63人が負傷した。富久さんは期末試験の最終日でいつもより遅い電車に乗って事故に遭遇したという。優秀で、東大を目指すと言っていたそうだ。父親は実業家。高校1年の時に父親から、あとは自分で考えろと100万円渡され、月謝とか小遣いは株取引でもうけて払っていたとのことだった。



「麻布高校で学校に直談判してボクシング部を作って。だからすごく印象に残っているんです。将来は世界チャンピオンになるのではなく事業に成功して大橋ジムの大スポンサーになりますと言ってましたから」「皆に誕生日会をやってくださいと言われ、誘われるんだけどずっと断ってたんです。誕生会というとこの日だから…。それで13回忌の時に家に行って『自分も誕生日をやってないので』と、これを区切りに、再開することをお願いして」




「頭の良い子でしたから東大を出て実業家になる夢も本当になるなと思ってましたよ。あの麻布高校でボクシング部を自分一人で作って顧問も見つけて…」現在、新型コロナウイルス対策としてジムの入り口には自動体温計が設置されている。7月に再開する試合も、当面は採算度外視の無観客試合となる。



 「ニュースを見ていると正直、ボクシングどころじゃない。それも自分のところだけじゃないから仕方ないかな、という感じですが富久ならどうしたでしょうね」

有言実行型だった富久さん。その彼を慕う長文のメールが大橋会長の心を癒やし、揺さぶり、前を向かせた。彼の魂は今も生き続けていると思った。


中日スポーツ


地下鉄で死亡事故が起きたのは日比谷線だけだが、負傷者の出た事故だと他にもたくさんある。


人身事故を除いた日本の地下鉄での死傷事故は、



・営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故

1968年(昭和43年)1月27日、日比谷線神谷町駅付近で回送中の東武鉄道2000系(6両編成)の3両目の主抵抗器付近から出火し1両が全焼、1両が半焼。
火災発生が駅と駅の中間だったために消火に手間取り、乗務員や消防士ら11人が負傷。



・札幌市営地下鉄南北線脱線事故

1971年(昭和46年)9月3日、開業前の地下鉄南北線で国鉄関係者を含む28名が試乗した列車が指令所の指示を待たずに発車し、分岐器部分で脱線してシェルターに衝突。運転士2名と試乗客3名が負傷。



・営団地下鉄東西線列車横転事故

1978年(昭和53年)2月28日夜、東西線中野行き快速列車(営団5000系10両編成)が、南砂町-葛西間(西葛西駅は未開業)の荒川中川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部3両が脱線し、最後部2両が進行方向右側の西船橋方面行きの線路上に横転。




など、これらの事故すべて刑事事件として扱われていない。

平均以上の安全度を確保できれば、その職務を果たした事になるので「彼は、著しいミスを犯した」事の証明が出来なければ、運転士や関係者の責任は問われない。鉄道会社なんてまだいいほうで、最低限の賠償もされ、そこそこ情報も公開もされる。



どこぞかの電力会社など、除染で命を落としても見合った保障じゃなく緘口令。(公言すれば全額没収というが、実際はもっと厳しい口止めがされている)御巣鷹山の日航機墜落事故なども誰も刑を受けていない。



そうする法律がないというのが現状なので、数年前までそういった情報すら掲載されていなかった。
なおこういった事件に関しては、今の日本ではなくて、昔の日本から現在まで「何も変わっていない」ということを理解しないといけない。




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